未踏分子を探す冒険
INTERVIEW 19
東京科学大学
物質理工学院応用化学系
田中健 教授
まだだれも見たことない分子を、この目で見たい。それは未踏の地を目指す冒険に似ている。何があれば前へ進めるか、どうやったらそこへ辿り着けるか、ルートを描き、道具がなければ作り出す。有機合成化学の地平を切り開く研究者の姿を追った。
こんなものができたらかっこいいよね
ベンゼン環は、非常に安定した有機化合物の基本骨格である。
六つの炭素原子が正六角形を描くように並び、それぞれの炭素が隣り合う二つの炭素と水素原子に結合している。しかも、ベンゼン環の電子は一つの結合に閉じ込められているのではなく、六角形の環全体に広がっている。
その安定した骨格に、どの官能基を、どの位置に導入するか。有機化学者たちは長い時間をかけて、そのための反応を発達させてきた。メチル基、水酸基、アミノ基などの置換基を導入し、あるいは別の芳香環とつなぎ合わせることで、より大きく、より複雑な芳香族化合物をつくる。すでに知られている分子をより効率よく合成したり、医薬品候補の構造を少しずつ変えて効き目や安全性を確かめたりするうえで、この方法はきわめて有効だ。
だが、まだだれも見たことのない未踏分子をつくろうとすると、そこにはある種の壁がある。ベンゼン環は基本骨格として非常に便利だが、できあがった骨格にあとから部品を足していくだけでは、つくれる有機化合物の種類も限られざるを得ないのだ。置換基の位置、反応の順番、立体の向き、右巻き・左巻き、これらを制御するのは、後からくっつけるだけでは難しい。
そこに大ナタを振るったのが、東京科学大学の田中健教授だ。有機金属触媒を駆使して、未踏分子へ至る新しい合成反応を開拓してきた、有機合成化学の第一線で活躍する研究者である。
「未踏分子を探すのは好きですね。こんなものができたらかっこいいよね、と思っちゃうんです。その時点では役に立つかどうかを考えることはあまりなくて。精神年齢が低いのかもしれませんね」と笑みをこぼす。
代表的な成果の一つが、軸不斉ビアリールの合成だ。ビアリールとは、ベンゼン環のような芳香環が二つつながった構造をいう。二つの環をつなぐ結合軸の近くに大きな置換基があると、環同士が自由に回転できなくなり、右ねじ、左ねじのような違いが生まれる。田中教授は、ロジウム触媒を用いた[2+2+2]環化付加反応によって、芳香環を組み立てる瞬間に、このねじれまで制御する方法を開拓してきた。
だれも見たことのない形を、分子として実在させてみる。その美しさや難しさへの挑戦が、田中教授の気持ちを駆り立てているようだ。
35歳で企業から大学へ
田中教授の前半生は紆余曲折に満ちている。
子どものころは生物が好きで、近所のペットショップに出入りし、いつのまにか店番のようなことまでしていたという。長じて獣医を目指し、東京大学の理科二類に進んだ。ところが、大学ではバレーボールに明け暮れ、教室にはあまり姿を現さなかったと振り返る。
「本気で獣医を目指している同級生がいて、彼の真剣に取り組む姿を見ていると、好きという理由だけで仕事にするのは、どうも違うんじゃないかと思ったんです」
そこで選んだのが二番目に好きで、しかも得意だった化学だった。
大学院理学系研究科化学専攻に進み、所属したのは、本人の言葉を借りれば「スパルタで有名な研究室」だった。厳しい環境のなかで、研究の基礎を叩き込まれていく。
「最初の一年は大変で、大変で。一年経つと結構ついていけるようになってきましたが、その時には、もう就職を決めていて。博士課程にも若干後ろ髪を引かれながら就職しました」
就職した総合化学メーカーでは有機化学の研究所に配属され、農薬や医薬品中間体の研究に従事した。社員でありながら留学の機会にも恵まれ、有機金属化学や触媒化学に本格的に触れた。そこで多くの論文を発表し、それらが高く評価されたことで、アカデミックの世界で研究を続けるという選択肢を現実のものとして考えるようになった。そして35歳のとき、自ら大学へ戻ることを決断した。
「大学で何をやるか。相当考えましたね。十分なバックグラウンドがあるわけでもなく、会社でやっていたことと同じことをするわけにもいきません。複数のテーマを考えた中のひとつが、特によく当たったという感じです」
だれも手を出してこなかった挑戦
その「当たった」研究が、アルキン、すなわち炭素➖炭素三重結合をもつ化合物から、ベンゼン環をはじめとする芳香環を組み立てる[2+2+2]付加環化反応だった。
高活性な触媒を見つけ、しかも選択性をうまく制御できるなら、中心不斉のようなひとつの炭素原子のまわりで立体を決めるのではなく、軸不斉やヘリカルなキラリティを統一的に作れるはずだ。さらに、アセチレン三つからベンゼン環を作る反応は、非常に大きな発熱を伴う。反応の途中で越えなければならないエネルギーのピークを触媒によって下げることができれば、ベンゼン環をひとつ作るだけでなく、もっと大きな分子骨格を一気に構築できるのではないか。そう考えた。
[2+2+2]付加環化反応の概要
「不思議なことに、ほとんどだれもやっていなかったんですよね。1990年代前半にヘリセン合成の論文が一報か二報あったきりで、その後ほとんどない。やはり活性や選択性をうまく制御できる触媒がなかったんじゃないでしょうか」
田中教授は、触媒探しから始め、さまざまなスクリーニングのなかで、ロジウム触媒がこの反応に高い活性を示すことを見いだす。使ってみたら「まんまとできたという感じ」だったという。
「芳香族の構造を作る化学者はたくさんいます。でも、多くの方は、既存の反応を使って目的の分子を作ることに注力されている。私のように、触媒探しや、なんなら触媒をつくるところから出発する方は、あまりいない。でも、触媒を自分で作り、今までにない反応を使うことができると、普通の合成反応の組み合わせではたどり着けない分子にたどり着けます。そこが面白いところです」
有機金属触媒のなかには不安定なものもあり、使いにくいものは敬遠されやすい。だが、田中研究室では、そうした扱いにくい触媒も「普通に使っている」という。だれも見たことがない場所へ行くのに、だれもが使っている道を通っていては、けっしてたどり着けない。田中教授の言葉には、そんな自負がにじむ。
大きな分子を壊さず測れる
教授の研究を支えているのが、JEOLの質量分析装置JMS-T2000GCだ。T2000GCは固体や難揮発性の試料をほとんど分解せずにイオン化できるFD法を採用している。装置構成からGC-MSとして認識されることが多いが、田中研ではGC(ガスクロマトグラフ)を接続せず、FD-MS(電界脱離イオン化質量分析計)として活用している。
「この装置を最初に使ったときは、本当に驚きました。私たちがつくる多環芳香族分子は、従来用いていたESIやAPCIでは十分なイオンが得られず分子量の確認が難しかったのですが、この装置では分子イオンを容易に観測できました」
FD法は強電界によって分子から電子を1個引き抜くトンネル効果を利用してイオン化させる。教授が扱うことの多い多環芳香族化合物は、非局在化したπ電子を豊富に持っており、電子を手放しやすい。
「私たちが扱うことの多いサイズの分子で、分子を壊しにくく、分子イオンをきれいに見ることができるという点でFDに勝る方法はないでしょう。有機化学の研究室で、もっと使われていないのが不思議なくらいです」
もちろん、できあがった分子の質量を測るだけでは、分子の構造を確定はできない。EI法(電子イオン化法)の高いエネルギーで分子をあえて粉々にして、生じたフラグメント(断片)イオンのパターンを見ることで、分子のどの部分にどんな官能基や骨格があるかを見極めている。
求められる「人間の発想」
大学の研究者となって20余年が過ぎた。その間、装置も長足の進歩を遂げた。AIや高速スクリーニングのような手法も現れた。
だが、「やはり人間の発想が大事だ」と田中教授は強調する。
研究室前の廊下の壁には、メビウス型分子の研究ポスターが貼られている。メビウスの輪とは、帯を一度ひねってつないだ、表と裏が一続きになる不思議な形のことだ。分子の世界でも、芳香環が連なった構造をひねりながら閉じることで、平面状に広がることの多いπ共役系とは異なる、ねじれた環状π共役分子をつくることができる
「たとえば、AIに聞いてみて、あの反応から『メビウス型の分子をつくろう』という発想が出てくるかというと、なかなか難しいんじゃないかと思います。そこへいくと、人間は『これがあると面白いよね』という単純な動機から方法を考え始める。それが研究を前に進めるうえでは大切だと思います」
「セレンディピティ、いわゆる偶然生まれてくるものも大切です。これができるなら、これもできるよね、と広がっていく。過去のデータベースにない反応や変換が出てきます。特に私たちのように変な構造を使っていると、変な現象がいろいろ起こります。そこから『これはこっちに使えるのではないか』と研究室の若いメンバーに提案するのが、私の役割だと思っています」
有機合成の景色が変わる日
還暦を間近にして、田中教授の夢はさらに広がっている。
「もっと選択性が自在に出るような触媒をデザインしていきたいんです」
反応の途中で、どの部品をどの順番でつかまえ、どの向きに並べ、どこで結合させるか。その一連の動きを触媒の側から設計する。それが、ここでいうデザインの意味するところだ。そこには、まだ誰も実現していない挑戦的な課題が数多く残されており、その一つひとつが新たな研究テーマとなる
「たとえば、三重結合を二つ、二重結合を一つ組み合わせる反応はできる。ところが、二重結合を二つ使おうとすると、とたんに難しくなるんです。いまは、そこに少し手が届きそうになってきたところです」
難しい理由の一つが、ベータ水素脱離という副反応である。反応の途中で、せっかくつながりかけた分子が別の方向へ進んでしまう。田中教授は、その副反応を抑え、二重結合を含む部品でも狙い通りに環を閉じられるような触媒の設計を考えている。
それが実現すれば、アルキンだけでなくアルケンも反応部品として自在に組み込み、さまざまな組み合わせから環状骨格を一気に構築できるようになる。しかも、位置選択性や立体選択性まで制御する。田中教授は、それを触媒反応の究極の姿の一つと考えている。
有機合成の景色が大きく変わる瞬間が近づいているのかもしれない。
田中 健 (たなか けん)
東京科学大学 物質理工学院応用化学系 有機合成化学研究室
1990年東京大学農学部卒業、1993年同大学院理学系研究科化学専攻修士課程修了。大手総合化学メーカー勤務の後、2002年、東京農工大学工学部助教授、2012年、同大大学院工学研究員教授、2014年、東京工業大学理工学研究科教授、2016年、同大大学院物質理工学院教授に就任。2024年大学の合併改称に伴い現職。専門は有機化学、合成化学。
